1.はじめに:
義経は鞍馬寺を出て平泉へ向かう途中で元服しました
時を経て 義経に捕われていた平宗盛父子が斬首され 平家は完全に滅亡しま
した
義経元服の地と平家終焉の地は滋賀県のほぼ同じ場所にあります
2.義経元服の地:
鞍馬寺に預けられた牛若は遮那王と呼ばれていました
その遮那王は16歳のとき(1174年)奥州平泉へと旅立ちました 藤原秀
衡に仕える吉次に伴われ 平家の目を忍んでの逃避行です 鞍馬寺から山越え
で
仰木の里を抜け 堅田から船で草津に渡り 鏡の宿へと足を進めたようです
遮那王はこの鏡の宿で元服することを希望し 九郎義経という名を自ら命名し
た由です
竜王町に「鏡」という地区があります
「鏡」の国道8号線沿いに「かがみの里」という道の駅が一昨年開業しました
中央の建物は義経の兜をかたどったものだそうです
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交通量の多い8号線
この左手に道の駅がある
竜王町鏡
道の駅 かがみの里
元服の池
義経が元服の時に盥(たらい)で使った水の池です
鏡神社
元服した義経が参拝した鏡神社です
烏帽子掛けの松
義経が参拝したとき烏帽子を掛けた松です
今は枯れ木の一部だけが残っています
義経宿泊の館跡
義経が宿泊したときの館跡です
元服の池・鏡神社・館跡はおよそ200メートル位の距離内にあり いずれ
も8号線沿いにあります 道の駅とは8号線をはさんだ反対側です
3.平家終焉の地:
平家の軍勢は壇ノ浦で壊滅しましたが 清盛の三男宗盛とその子清宗はまだ
生きながらえていました 義経は京都から宗盛親子を連れて鎌倉の頼朝へ会い
に行きましたが 頼朝は義経に面会も許しません やむなく京都へ引き返す途
中 鏡の宿まで来て宗盛父子を殺害せざるを得ませんでした
平宗盛胴塚の標識
平宗盛父子の塚
「平宗盛胴塚」という標識が国道8号線脇に立てられています
父子の首は京都へ運ばれ 体だけがここへ葬られたためです 今から800年
余り前(1185年)のことです
雑木林の一角にひっそりとした塚があり 「平宗盛卿終焉之地」という石碑が
建っています
ここはいつもきれいに清掃されています 平家にゆかりのある人が清めている
のかも知れず 戦争が嫌いだった父子への同情がなさしめているのかも知れま
せん
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胴塚の前には池があります
ここで宗盛父子の首が洗われたため「首
洗いの池」と呼ばれてきました
この池は蛙が鳴かないので「蛙鳴かずの
池」とも呼ばれてきました
蛙鳴かずの池
最近池の一部が埋め立てられてしまいま
した
4.交通事情など:
義経元服の池などがある鏡地区は竜王町にあります
ここは野洲市 近江八幡市 竜王町が境を接する位置で わずかに竜王町に
入り込んだところです 宗盛の胴塚(平家終焉の地)は野洲市です
野洲市も竜王町も自分の管轄だけしか扱いませんから 至近距離にあっても
両方をまとめて紹介した地図は見当たりません

元服の池から100メートル
ほど西は野洲市で 平家終焉の
地は元服の池から500メート
ルほど西の野洲市内にあります
↓
↓

JRで行くとき:近江八幡駅からバス停鏡まで30分位(推定)
野洲駅からバス停大篠原まで15分、宗盛胴塚まで
徒歩10分位
健脚な方は篠原駅から鏡まで徒歩30分以内(推定)
名神高速のとき:竜王ICから5分位
関連記事(既掲載):
・清盛が作らせた
祇王井川
・義経が抜けた
仰木の里
関連サイト:
・
義経元服の地(竜王町観光協会)
・
平家終焉の地(野洲町観光物産協会)
(散策:2005年1月28日)
(脱稿:2005年1月31日)
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